いったーん

オクオカの
暮らしにふれる

40年以上このまちを見て来た荻野さんに、このまちの歴史やこれからこのまちをもっと楽しむアイデアをお聞きしました。

オクオカ暮らしのインタビュー

移住したまちで、どうしたら上手く暮らしていけるのかな。どんな暮らしが待っているのかな。移住前に抱える不安。その答えは実際にこのまちで暮らしている人の中にそのヒントがあり、またそれはこのまちの新しい入り口なのではないかと思い、インタビューに伺ってみました。今回は「地域の魅力を伝える」「オクオカ暮らしに近づく」「オクオカと暮らす」の3つのテーマにそって5つの質問項目を設け、それぞれの中から1つずつ選んでもらい、お話を伺いました。そして、インタビューの最後に「このまちの入り口を増やすにはどうしたらいいと思いますか?」という共通の質問を投げかけ、お話を伺った方々の地域に対する思いを聞いています。

お話を聞いた人:荻野 昌彦さん
まちの歴史にも詳しく、移住者の受け入れも積極的に行っている。
千万町(ぜまんぢょう)町在住

千万町(ぜまんぢょう)町生まれ。大学卒業後、森林組合に就職後、市内製材会社等の企業に転職したのち、再び森林組合の役員となり2023年からは組合長に就任。また、地域活動にも熱心に取り組み、千万町・木下(きくだし)の地域の人々を中心とした、自主的・自発的な地域づくり組織である「じさんじょの会」などに積極的に関わり移住者の相談などにものっています。 私とは、父の知り合いであったことから子どものころから親交があり、親戚のおじさんのような存在です。まちや山で会うたびに昔話や、岡崎や林業のこれからについてお話しを聞かせてもらっていました。今回は、長い間この地域に暮らす人ならではの暮らしの工夫や、苦労そして思い描く千万町の未来をお聞きすることができました。

お話を聞いた日:2023年8月28日

このまちの歴史を教えてください。

荻野:いまは岡崎市千万町町ですが、その前は額田郡額田町千万町、さらにその前は額田郡宮崎村でした。(岡崎市の地図を指さしながら)これが岡崎市と合併する前の額田郡額田町を示す地図で、この赤い線で囲われたところが、昔の額田郡宮崎村。そのさらに前、明治の廃藩置県の直後は今の千万町、木下(きくだし)、夏山(なつやま)は栄枝村(さかえむら)という村でした。栄枝村から宮崎村に変わる時には、夏山だけが離れて、千万町と木下だけが宮崎村に合併しました。理由は、いまでいう中学校を作らなければいけなくなった時に、夏山のほうが人口が多いからそっちに中学校ができることになりそうということで、そうなると遠くて通うのが大変だということになって。だったら、こっからすぐ降りてけば宮崎に学校があるし、そっちの中学に通えた方が良いだろうということで夏山と分かれて、宮崎村に合併しました。

石原:なるほど。いつの時代も学校は鍵になるんですね。

荻野:さらに歴史をさかのぼると、時代によっては隣の市町だったこともあったりします。江戸までさかのぼると、新城側だったという記録も残っています。その名残を千万町神楽(毎年4月に八剱神社の祭礼で奉納される神楽。嫁獅子神楽としては県下で最も長い伝統がある。)が作手(つくで)の神楽に凄く似てるところで感じます。打ち囃子っていう笛や太鼓もね、なんかすごく似ています。

石原:昔は同じ村として演奏していたということでしょうか?

荻野:そう。はじめは同じ物だったのが別れて、それぞれのまちで引き継がれていくうちに、気が付いたら微妙に違うって感じになってると思うんですけど、音色やリズムが似ているので昔は一緒だったと想像できる。そんなところで、こういう山の頂上で境にある場所は、時代によってあっちについたりこっちについたりしてたということが分かります。

石原:おもしろいですね!神楽や打ち囃子など、文化的なところで昔の名残が継承されているんですね。また、宮崎村は林業が盛んだったと思うのですが、それはどうしてなんでしょうか?

荻野:明治のはじめに、それまでは藩のものとして管理していた山が、地租改正の流れで所有者をはっきりさせるようになり、自由に自分の山の木が伐れるようになりました。すると、その頃は木は高く売れたからちょっと5本10本伐ったらいいお金になったんです。それが分かると人間は欲が出てきて、木を売ってお酒や博打やったりする人も増えてしまった。全国でそういうことがたくさん起きたんだけど、このあたりでも森林が借金のかたで矢作の人に移っちゃうとか、新城の人にもってかれるとかそういうことが起き始めて、こんな風になっちゃだめだと、山本源吉さんという人が、もう森林は村のものにしようと提案した。そうすれば、ここで働けばお金は入ると一軒一軒まわって75人の人を集めて個人の所有の山を組合で管理するという仕組みをつくって、管理するようにして、伐採したらきちんと植林するようにしました。それがここがスギやヒノキの人工林の多いエリアになった理由ですね。その山本さんが「村有林百年計画」というものを立てられて、その指針をもとに林業で宮崎村は栄えてきました。

石原:その時代に百年計画を立てられていたというのは凄いですね!

荻野:そして宮崎村から額田町になったのは、昭和の大合併と言われる昭和30年代の初頭に起きたながれの一つです。平成の大合併とは対照的に山間部の方がとても裕福な地域で、国としては、これから工業化して世界に打って出ようという時に、これではだめだということで、お金のある山間部と都市部を合併しました。岡崎の中でいえば、額田郡の本宿村も岩津町、碧南郡の矢作町などが、みんな今の岡崎市に合併し、宮崎村も額田町になりました。その時に、村で守ってきた財産である村有林はこれから財産区という名前に変えて、きちんと元々の宮崎村の人たちの財産として残しますという方針のもと、その財産区が産むお金は地域の人のために使われていました。色々と話を聞いたり昔の資料を見たりすると、僻地へ来る学校の先生は街から家族ぐるみでくるとか、若い先生が単身赴任で来るという感じで大変だった。だから、そういう人の月謝とか、宿舎とか教員住宅だとか、給食費とか、全部財産区の予算の中で充当してたみたいです。地域で行われる敬老会なんか飲めや歌えの大騒ぎ。財産区の木を売ってできたお金は、そんな風にも使われたりもしてたみたいですね。 ところが平成になると、それはまずいという考えがでてきて、財産区の解釈を少し変え、平成になってから全国一律で、あくまでも山の管理に使うのはいいけれど、学校の先生の給食代等に使うことはできなくなりました。 だから昔を知っている人は、災害が起きたりみんなで使うような倉庫や建物が欲しかったりするときは、財産区のお金が昔みたいに使えれば管理委員に頼んでもらったのになあ。って話がでる。敬老会もこんな質素なものでなあ。なんて声もいまだに出ます。まあ、そんなことも含めこのまちの歴史ですね。


暮らしの工夫を教えてください。

荻野:養老孟司さんの本を読むのが好きで、よく読んでるんですけど、本の中で仕事に取り組むとか成功するには好きになるしかないでしょというようなことが書かれていて、たしかにそうだなと思ったんです。昨日も、朝から草刈りをしてへとへとだったんだけど。でも、もし私が常勤の組合長じゃなかったら、何がやりたいですか?って言われてたら、草が刈りたいって言うと思います。そんなに好きなんですか?ってなっちゃうんだけど。

石原:草が伸びているのが気になっちゃうんですよね?

荻野:そうなんです。周囲のおじいさん達皆そうです。気になるのと、養老孟司の言う通り、ちょっと変態かもしれないけど、きれいに草刈ってる人ってみんなそれが好きなんだと思うんです。野球選手の大谷翔平が、野球が本当に大好きでこの大好きな野球をどうしたらもっと好きになれるか?って続けたら今すごい選手になってますよね。それに似ているのかもしれない。好きなことをもっと好きになって上手になるにはどうしたらいいか?って最高の悩みだと思うんだよね。千万町みたいなところに住んでると、草を一度刈っても一番ピークの時は2週間で元に戻るから。ずっと好きなことやっていられますよ。

石原:そうですよね。今みたいな夏はとくにそうですよね。草刈り機をたくさん持ってるって言われていましたよね?なんか、刃が5枚だか6枚あるとか。

荻野:草刈り機は4台持ってて、親父が2台もっています。変態じみてるでしょ。だから、朝からガンガン草刈ってても全然大丈夫!草伸びてくるの大歓迎!もう、趣味が草刈りということですね。刃も自分で研ぐから常に十数枚あります。

石原:それは草を刈ってるのが楽しいんですか?それとも、達成感があるからですか?

荻野:充実感ですね。でも、ひと月経っても草が伸びてこなかったら違うと思う。2週間でほぼ元の状態に戻ってくるから、そうきたか!みたいな。笑。そういう、ちょっと変態じみた感じですね。これは記事にするには難しいかな?笑

石原:ちょっと読者の方に理解してもらうには難しいかもしれません。笑

荻野:俺自分で自分のことを「草刈昌彦」っていってるんです。なんでこんなに草刈り機があるんですか?いや、私、草刈昌彦ともうしますみたいな。名刺でも作ろうかなとも思ってる。

石原:いいですね!

荻野:なんか聞いたことあるような名前ですね。俳優でそんな人いましたね?みたいな。まあ、そういう馬鹿なこと言いながらやってますね。

石原:大変なことですら楽しみにしてしまう。それが暮らしの工夫なわけですね。


このまちで実現したいことはなんですか

荻野:これからは、人口が増えるってことはしばらくは考えにくいし、財産も莫大にあるわけじゃないから、年寄りが10人とか20人で助けあって暮らしていくのがいいのかなあって思っています。なかには、60代でも人より早く衰えて無理って人も当然出てくるけど、そういう人はまちに任せる。無理にこちらで暮らすってことではなくて。でも、70代80代でパチンコ屋に行く元気があるような人だったら、まあ遮二無二6時間も8時間も草刈りをしないで、2時間ぐらい草刈ってあとは楽しいことをみんなでやるみたいな生活ができると楽しいんじゃないかなって思っています。まあ、その「楽しい」が何かということは私にも分からないけど。クリエイティブな何かができるといいかなと思っています。

石原:クリエイティブなことにつながるみんなが楽しいことというのは、具体的にどういうことでしょうか?

荻野:クリエイティブなことっていうのは、木工でも竹細工でもなんでもいいけど、なんか軽作業で小銭稼ぎができると良いのかなと思っています。ただ麻雀やるとか、ゲートボールとかグランドゴルフに興じるってことじゃなくて。資源を活用するっていう点で、昔からの産業である榊を栽培したり、千両等を育てて出荷するのもいいと思う。今でもやってる人もいるけど、割に合わないって声をよく聞ききます。でも、50~60代で生活費がどうのこうのって計算すると無理ってなっちゃうけど、これが70~80代になった時には、必要な生活費は違うわけだから、やれるのかもしれないと思っています。みんな年取っても共通のところで小銭稼ぎをしながら、馬鹿な話や悩みとかそういう話で面白おかしく暮らしていけたらいいなって思ってます。今のうちに手を打って、千万町行くと、なんかいつもグダグダやってるけど結構面白いものがあるよとか、こんなもん買ってきたよ。とか、なんかそんなことができる施設やコミュニティがあるといいなと思います。


どうしたら、このまちの入口が増えると思いますか?

荻野:結局、お金の問題はあると思う。職業でいえば、年収の高いところに夢を描くしね。ぼくはパイロットになるんだ、プロ野球選手になるんだって。でも、ユーチューバーってのはなんでなりたい職業なんだろうか?

石原:年収もあるのかもしれないですけど、やりたいことを仕事にしてるっていうのが子どもたちにとっていいのかもしれません。ゲームをやってるだけで、それがお仕事になってるっていう感覚に近いのかもしれません。

荻野:なるほど。森林組合の中でもどうしたら若い職員がもっと来るんだろう?って、職員と話をしたりするのですが、仮に年収が2000万ですって募集をしたりして、それが目的でくる人は、こんなに大変なことをしないともらえないなら、他にもっと効率よく稼げるところがあるんじゃないかって思うんじゃないかって話してる。だからお金の部分ではなくて、岡崎森林組合なんかかっこいいんだわ!みたいに思ってもらえたらいいんじゃないかって。

石原:そういう意味では、田舎での荻野さんの暮らしを見て、かっこいい!おれもあんな風に毎日かっこよく草刈りしたい!って思ってもらえるといいし、荻野さんが楽しく暮らしているのは一つの入り口だと私は思いますよ。荻野家の娘さんたちは、そんなお父さんの姿を見てなにか言ってらっしゃいますか?

荻野:今は、4人娘はみんな結婚して家を出ているので、どう思ってるのかなあ。でも、今はLINEとかテレビ電話等があるから娘や孫に会っても本当は久しぶりなのにまったく久しぶり感が無いって感じですね。

石原:確かにそういう意味では物理的距離は感じなくなりましたね。

荻野:でも、物理的距離って感じ方は人それぞれなんだと思います。我々が北海道とか行くとなったらちょっと旅行になるじゃないですか。でも、アメリカ人からしたら、北海道までなんて近いと感じると思います。そういうこと考えたら娘が嫁いだ北名古屋市とか一宮市ってもうすぐそこですよね。

石原:すぐそこですね。それを思うと、まちなかから千万町までは車で30分くらいで行けてしまう。そう思えば、とても便利な場所ですね千万町は。

荻野:恵まれているから、こんなに保守的で中々変えようとしないのかな?

石原:そういうことを少しずつ緩めていくことがまちの入り口が増えることにつながるでしょうか。

荻野:受け入れ側が古くからいるからとか、新しく来た人だからとか。そういう意識を変えて門戸を開くということですかね。入り口を増やすのは。

石原:ありがとうございます。



インタビュアー

石原 空子

岡崎市の中心部で暮らす。川とともにある暮らしを目指すONERIVERの活動を行っている。二児の母。