いったーん

オクオカの
暮らしにふれる

下山に生まれ育ち80年。このまちを見つめつづけてきた高木田さんにお話を伺いました。

オクオカ暮らしのインタビュー

移住したまちで、どうしたら上手く暮らしていけるのかな。どんな暮らしが待っているのかな。移住前に抱える不安。その答えは実際にこのまちで暮らしている人の中にそのヒントがあり、またそれはこのまちの新しい入り口なのではないかと思い、インタビューに伺ってみました。今回は「地域の魅力を伝える」「オクオカ暮らしに近づく」「オクオカと暮らす」の3つのテーマにそって5つの質問項目を設け、それぞれの中から1つずつ選んでもらい、お話を伺いました。そして、インタビューの最後に「このまちの入り口を増やすにはどうしたらいいと思いますか?」という共通の質問を投げかけ、お話を伺った方々の地域に対する思いを聞いています。

お話を聞いた人:高木田 洋さん
生まれも育ちも下山、現在、83歳の高木田さん。地元有志が集まって構成する「額田炭焼きの会」の中心として活動されている他、農業、林業など幅広く地域活動に参加されています。
保久在住

下山町生まれ。早期退職後、地元の豊かな環境保全を志し、間伐材を利用した炭焼きを始め、自宅跡に炭焼き窯(七ツ蔵窯)として整備し「額田炭焼きの会」を続けてこられました。過去には、炭による河川の水質浄化や燻製窯作りでJICAの活動に参加しスリランカに3年間赴任するなど、国際的な活動も。そんな高木田さんに、このまちの歴史やまちづくりのことを伺いました。

お話を聞いた日:2024年3月01日

このまちの歴史について教えてください。

高木田:わしらもそれほど詳しいわけじゃないんだけど、年寄りから伝えられたことがあるな。昔、保久には代官屋敷(保久陣屋)があったみたいだね。今の下山保育園あたり。代官さんが廃藩置県でこっちへ見えたとき、新しく代官屋敷を一部作ったところがあって、数年前までは役場や森林組合の事務所として使われていたこともあった。いまは下山の市民ホームとして建て替わっていて、名残としては石垣が残ってるだけだな。

岩ヶ谷:そこに行ったら石垣が今もあるってことですか?

高木田:そうそう。あとは整理されてほとんど形がなくなっちゃったんだよ。昔は山下家というのが城主の保久城というお城があったんだけど、徳川家康の先祖の松平家との戦争(円川の戦い)で敗れて滅びちゃってね。それで保久城は潰れちゃって、その後に来た石川家の菩提寺が万福寺だと。あとは小学校にも歴史があって、下山小学校は150年の歴史があるよね。古さは市内だと梅園小学校に次いで2番目じゃないかな?

岩ヶ谷:それはそれだけ子どもがたくさんいたからということなんですかね?

高木田:子どもがいたからっていうよりも、それだけ教育にみんなが熱心だったっちゅうこともあるんじゃないかな。

岩ヶ谷:なるほど。そういう地域性だったということですね。


このまちの美味しいものを教えてください。

高木田:ここで美味しいものっていうと柴田酒造場の「孝の司」だね。孝の司はどれも美味しいんだけど、僕が一番美味しいと思っているのは「佳撰」だね。いわゆる二級酒ってやつかな。二級酒を熱燗にするのが美味しい。

岩ヶ谷:佳撰(カセン)ですか?

高木田:うん。いまは上撰とか佳撰って呼んだりするけど、昔は1級、2級、特級ってお酒の品質を読んでいたことがあってね。

岩ヶ谷:柴田酒造場でカセンって言ったら分かりますか?

高木田:佳撰じゃなくて、二級酒って言ったら柴田酒造で分かるよ。僕らが入った時分では、760円ぐらいだったかな。

岩ヶ谷:ずっとそのお酒がお好きなんですか?

高木田:最近は若いときほど飲めないけど、郵便局にいた時分は僕だけじゃなくて、局長も好きだったもんね。局の仕事が終わってから、お店に行って縁側に座ってね。200ミリのガラスのコップになみなみと注がれたお酒をぎゅっとよく飲んだ。僕らは1杯飲めばそれで良かったんですが、局長はいつも2杯飲んでいた。もう無くなってしまったんだけど「おいね」っていう店があった。

岩ヶ谷:「おいね」のことは、いろいろな方にお聞きしたことがあるのですが、どんな所だったのですか?

高木田:場所は元郵便局の建物のすぐ隣だね。青山さんっていうおばあちゃんがやっていた。そのおばあさんがおいねさんという方だから店の名前も「おいね」。よく「バーおいねに行くぞ!」ってみんな言っては、そこでいつまでも飲んでましたね。2階があって、郵便局で忘年会だとか会議のときには2階を借りてはよく飲んでたんだよ。

岩ヶ谷:当時の楽しそうな雰囲気が想像できますね。

高木田:あと、うまいものがもう1つあった。平九郎饅頭っていってね、酒屋さんの前に饅頭屋さんがあったんだ、昭和堂っちゅう。

岩ヶ谷:そんなお店があったんですね。今もどこかで買えるんですか?

高木田:今はなくなっちゃったね。


このまちに必要な人材ってどんな人ですか?

高木田:まちに長く住んでいると、どうしてもなあなあになっちゃってあまり発展を考えなくなってしまうよね。昔からよく言うじゃない。「若者」と「馬鹿者」と「よそ者」がおらんとまちは栄えないというようなもんで、若者のよそ者が来てくれると一番ありがたいと思うけど。

岩ヶ谷:具体的にはどういう若者でしょうか?

高木田:もともとここにおる若い衆は勤めが精一杯で、そんなこと考える人、今では少ないよね。どんどん人が減ってきてね。それで地域おこし協力隊の成田さんが来てくれたもんだから嬉しいよね。ただ地域おこし協力隊も3年任期ちゅうだらで、あまり長くここで勤めてくれるか分からんけどさ。

岩ヶ谷:よそからきた若い人がまちに新しい風を吹き込んでくれるのは良いことですよね。

高木田:そうだな。あとは酒屋の秀君が、家を買って宿を作ろうとしてるよね。わしも「もっこの会」として、過去にいろいろと空き家対策をやったことあるんだよ。だけどみんな仏壇があると、ご先祖がおられるって貸さないんだわ。夏に涼みに行きたいしな、なんて言うけど、実際にはあんまり来ない。だけど、なんか手放すとさみしいような気がするんじゃないかな。

岩ヶ谷:下山には空き家が全くないわけじゃないってことですね。

高木田:本当に空き家はいっぱいあるんだ。豊田にテクニカルセンターができて従業員が勤めてるから「どこか家がないかや?」っていうんで、団地には空いてるところあるって言ったら、ああいうところは住みたくないってさ。一軒家のちょっとした静かなところで、みんなが来てわーわー騒いで飲むようなところがないかな?って言われてるから、家主に聞いてあげるんだけど、やっぱり貸さないんだな。それで、貸すような家は水廻りが傷んでて400~500万くらいお金をかけなきゃ住めない。そういう家はあるんだけどね。そんな家はみんな住めへんしさ。


どうしたらこのまちの入口が増えると思いますか?。

高木田:空き家みたいなものを活用して、お店を始められたり、職人みたいな人が来て、ここで仕事しながら住んでくれると、いいような気がするね。 さっき言ったように、それがなかなか難しいことなんだけど。トヨタのテクニカルセンターができたもんで、そこへ勤めるようになれば自然とサラリーマンは増えてくると思う。ただ、それだけじゃあまり地域は活性化せえへんかもしれんけど、子どもが増えてくればまちは賑やかになるね。小学校の各クラスが複式学級じゃなくて、単式になるように7、8人ずつぐらいまで増えるといいけどね。複式の授業っちゅうのは子どもにかわいそうな気がして。なんとか岩ヶ谷さんみたいな人が来て住んでくれるといいね。田んぼづくりもいいけど。

岩ヶ谷:「となりの田んぼ」ですね。それをきっかけに実際に住みだしたり、そういう人が1人でも生まれるようにこれからも頑張っていきたいと思います。高木田さんはまちの中でいろんな活動をされていて、それが入口になってるんじゃないかなと思うので、そのあたりの活動についても聞かせてもらいたいです。

高木田:さっき少し話した「もっこの会」のことを話そうか。若い頃は、ちょっと人が寄ると一杯飲まにゃあれなんで、そんなことしながらいろいろな方と話をしてた。その内にこのまちが寂れていってしまうような危機感を感じて、まちに対してお手伝いすることができんかっちゅうことで「もっこの会」を10人ぐらいで立ち上げたんです。 もともとは2、3人で下山小学校にある桜(山桜)、あそこへスウェーデントーチを持っていって、夜桜を楽しみながら、松明を焚いて、お酒を飲んであそこでわいわい騒いでたんだよ。そのうちにいろんな意見が出てくるもんで、総代さんのお手伝いをする「黒子」になって、下働きの会を作ろうじゃないかということで、いろいろ試行錯誤して「もっこの会」を作った。いまでも「もっこの会」が主催して実施している「山桜を愛でる会は多い時は670人ぐらいの方が集まったこともあったんだよ。

岩ヶ谷:山桜を愛でる会ですね。今年は必ず行きます。

高木田:あと、なんか地域活性の起爆剤になるものがなきゃいかんっちゅうことで、あそこの保久川沿いの桜を植えたりもしたね。

岩ヶ谷:そうなんですか。あそこの桜はもっこの会さんが植えたんですね?

高木田:桜はもっこの会じゃなくて、学区でお金を出してもらって有志でやったね。もっこの会でやったのは「りんぽ館」は作ったね。

岩ヶ谷:りんぽ館をですか!?

高木田:当時の額田町長さんにお願いして、建物の設計をしてもらって。自分たちでやれば何とか1,500万円くらいまでは予算を納めれるんじゃないかってことで、もう亡くなっちゃたけど「岡田セツジさん」という方と私とで全部材料を切ったんだよ。ボランティアで。その後は、宮崎の森林組合、あの時分には額田町森林組合って言ってたけど、その方たちにもお願いして、下山体育館の下に材料や機械を持ってきて、大工さんと一緒に製材したり、プレーナーかけたりを手弁当でやりました。 あと体育館もやりましたね。自分は当時、体育指導員をやっていたこともあり、当時下山には体育館が無くて作らなしょうがないっちゅうことでいろいろ交渉していたら、額田には、形埜に北部トレーニングセンターっていうのがすでにあって、北部(形埜、下山)に体育館を2つも作るっていうのは難しいけども、実績があれば何とか考えると当時の町長さんに言われ、バレーボール部とかバトミントン部をつくって交渉を進めていった。あとは、土地はお寺の長興寺さんの土地を分けてもらうように頼んだりもしました。

岩ヶ谷:いまの小学校の体育館がある所のことですよね?

高木田:そう。体育館のところ。昔は田んぼだった。皆さんに印鑑をもらったり、ひたすら地道な作業をやってましたね。あの頃は若かったね!

岩ヶ谷:すごいです。高木田さんたちが活動をつづけてこられたこのまちで、次は若い人たちが入口をつくってくれるようになるといいですね。貴重なお話をありがとうございました。



インタビュアー

岩ヶ谷 充

8年前に岡崎市に移住。川とともにある暮らしの実現を目指し、地域の人々と活動を行う。犬が好き。